【映画】『パーフェクト・センス』

[★★☆☆☆]
終わっていく世界でキミと。


あらすじ:
感染すると次第に五感が奪われていく奇病が蔓延する世界で、運命的な出会いを果たした男女の愛情を描くパニックドラマ。感染すると嗅覚を失う原因不明の病がイギリスから欧州各国へと広がり、感染症を研究する専門家のスーザンも何も分からず困惑する。そんなある日、スーザンは、感染症の影響で客足の途絶えたレストランでシェフのマイケルと出会うが、2人もまた病に感染し嗅覚を失ってしまう。そして人々は嗅覚に続き味覚、聴覚と次第に五感を失っていき、世界は荒廃していく。監督は「猟人日記」のデビッド・マッケンジー。主演にユアン・マクレガーエバ・グリーン。(映画.comより)

映画情報:
キャスト: ユアン・マクレガーエバ・グリーン、ユエン・ブレムナー、スティーブン・ディレイン、デニス・ローソン、コニー・ニールセン
監督: デビッド・マッケンジー
製作: マルテ・グリュネルト、ジリアン・ベリー
製作総指揮: デビッド・マッケンジー、キャロル・シェリダン、ペーター・オールベック・イェンセン、ペーター・ガルデ、ジェイミー・ローレンソン
脚本: キム・フィップス・オーカソン
撮影: ジャイルズ・ナットジェンズ
編集: ジェイク・ロバーツ
美術: トム・セイヤー
衣装: トリシャ・ビガー
音楽: マックス・リヒター
原題: Perfect Sence
製作国: 2011年イギリス映画
配給: プレシディオ
上映時間: 92分
映倫区分: R15+


五感が次々と失われていく感染症という、ありそうでなかった設定の終末SFモノ。だが観た印象としてはラブストーリーの要素が大きく、本格SF映画を期待すると肩透かしを食らうに違いない。


特異な設定をわかりやすくするため、主人公マイケル(ユアン・マクレガー)には五感が重要な役割を果たすコックという職業を、世界で進行中の状況説明役としてヒロインのスーザン(エヴァ・グリーン)には感染症学者という役柄が与えられており、地球規模のスケールの話にも関わらず、限られた登場人物の中で物語を語り切ることに成功している。


また、イギリス特有の湿気を帯びた陰鬱な風景の中を絶望した人々が徘徊するさまは「28日後…」などを想起させ、終末好きとしてもある程度満足できる出来にはなっている。また、人としての感覚を失っていくという意味ではゾンビ映画と共通する部分も多いのではないか。*1


SFは現実世界に存在する問題や構造を換骨奪胎し、わかりやすく人々に提示するのに優れたジャンルだといわれる。ではこの映画で訴えられている問題とは何なのだろう。この作品で問題提起されているのは、表層的にいえば「人々が五感を失っていく中で、最後の最後に残るものは何か?」である。


現実においても聴覚や視覚に障害を持つ人々はいるわけで、そうした障害者は視覚や聴覚に頼らない世界に生きている。それを考えると、人々の五感が失われること自体はSF設定としては弱い。この映画の最もオリジナルな点は、人々の五感が失われることそのものではなく、人々の五感が徐々に失われていくという、時間経過を伴った喪失をすべての人が共通に経験することにある。


聴覚障害味覚障害に限らず、たとえ健常者であっても、各感覚器官に依存する度合いは人によって異なるだろう。たとえば、音楽家は一般人よりも聴覚を研ぎ澄ますだろうし、写真家は視覚を研ぎ澄ますだろう。ならば五感が欠落していくという現象は、それぞれの人が持つ独自の視点・世界観がひとつに収斂していくことを意味するのかもしれない。多様な世界観からひとつの世界観に収斂していく時、ひとは何を思い、どう行動していくのだろうか。


この映画はパンデミックモノの範疇に入ると思うのだが、段階的に症状が現れるため、日常から非日常へのシフトは他のパンデミック映画と比べても緩やかだ。そして人々の生活も一見様子が変わらない。いや、様子が変わらないように人々は努める。


「終わりなき日常」が終わりを告げたとしても、人々は非日常であるはずの日々を「日常」と半ば自覚的に錯覚し、仮初めの「終わりなき日常」を続けることを3.11以降に暮らす私たちは既に経験として知っている。そしてそれは数多の絶望を隠蔽することで成立することも。


この映画も同じである。この作品ではニュース映像のような暴力的な場面が挿入される*2
ものの、死そのものが直接描かれるわけではない。五感が失われていくという最も過酷な状況の中で、それでも生きんとする人間の姿をあくまで楽観的に描き切ろうとするのだ。それを希望として肯定的に受け取るのか、あるいは欺瞞として否定的に受け取るのかは人それぞれだろう。私はこれを否定的に捉えるつもりはないが、今の日本の状況を考えると、この作品をリアルに感じるかといえばそれも難しい。


また、嗅覚や聴覚といった感覚を失う寸前、人々は症状のひとつとして、自らの内的衝動を抑えきれずに、思わず慟哭してしまったり、怒りの赴くままに暴力を振るってしまうという描写があるのだが、その描き方がどこか皆一様なのだ。悲しみや怒りに伴う「泣く」「怒る」といった行動は、内に秘めた感情のアウトプットとして表出するものであり、人それぞれ違うものになるはずだ。だがこの作品では、泣き崩れたり怒り狂う様子がすべて同じに映り、人間の自然な感情の発露というよりも、ヒトという生物が反射的に行った動物的反応といった印象を受ける。そうした演出上の拙さや違和感が物語としての説得力を減じてしまっているのは勿体ない。また、場面転換などで戸惑う部分も多く、映画としては決して上手くない。


SF映画にも関わらず設定が甘いと感じる部分も多いが、それが不思議と気にならないのは、この作品が“破滅に向かう世界”という巨視的視点から描いたものではなく、あくまで主人公の男女二人の微視的視点から描いたラブストーリーだからだろう。だからこそこの作品では、世界に蔓延していく暴力に二人は直接遭遇することなく、二人だけの閉じた世界の中で交流を深めていく。


さて、最初に示したこの作品が問題提起する「人々が五感を失っていく中で、最後の最後に残るものは何か?」である。…それは実際に観て確かめていただくとして、私なりの所感を記してこの感想を終えようと思う。


この映画で描かれているのは、感覚を喪失していくと同時に「何か」を純化させていく人間の姿だ。最後に二人の間に存在するもの、その「何か」はもはや愛でもないのかもしれない。それはむしろ、人間という以前に、ヒトという動物が持つ根源的欲望に回帰した結果の姿なのかもしれない。その光景は確かに純粋であり美しい。生物的な美しさも、宗教的な美しさをも感じさせる。だがそれでも私は、醜さと美しさが綯(な)い交ぜになった今のこの世界が好きだし、いつまでも醜い人間であり続けたいと願う。世界は多様なままでいい。

*1:実際、ゾンビ映画をモチーフにしたとみられるシーンもある。

*2:金正日総書記の生前のご尊顔も拝見できる。